マオ@のロストテクノロジー??

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「織田切山」 作JIVE_JIVEお兄さん(マオ@)

創作寓話「織田切山」 作JIVE_JIVEお兄さん(マオ@)
時代的にいい加減です。ご注意ください。
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 昔々、江戸の後期。明智光秀と同じ美濃出身のそれは強い織田切山という前頭から小結にあがったばかりの、それは強い力士がいたそうな。

 織田切山は前頭から小結にあがったのは理由があって、なんと初場所で優勝してしまったからだ。

 それをよくは思わない当時の横綱多豊の国は、八王子の山中にて相撲の稽古とってやるといって呼びつけた。
田切山の稽古が始まった。すり足から始まり、四股を踏み、当たり稽古から30人の乱取りにった。

 織田切山は強いのなんの、得意の突き出しにてあっと言う間に15人は倒した。そして出てきたのは多豊の国。勝負は一瞬、織田切山が押し出しを狙い、それに答えた多豊の国は受け避しを狙い、多豊の国が勝った。その後も乱取りが再開し、織田切山はまた横綱と戦った。
 多豊の国はまた同じ避わし手を狙ったが、織田切山の賭に負けてしまったのである。避し手は最初のぶつかり合いから横にそれる傾向がある。つまり右に避わすか左に避わすかという二択が成功して相手の裏をとれると言うもの。

 多豊の国は避し手の名人だったが多用しすぎていた。そのため避わしての途中で足が着いてしまい。もともと悪かった膝をさらに痛めてしまったのである。

これに反省したのは多豊の国。膝を使っただけの簡単な変化だけでは、何割かの有利はあるが、織田切山のぶつかるだけの相撲にはけがを含めてのもしもの被害が大きいと理解し自分はこれから織田切山と同じ膝を痛めない戦法をするか残りの乱取り5人には避し手を取らせるようにまわりにふき込んだ。

30人目、織田切山と多豊の国の勝負である。
「はっけよーい、のこったー」
多豊の国はまっすぐぶつりにいった。一方織田切山は先ほどから戦った相手がすべて避し手だったため戦法が定まらなかった。しかし八割の力でぶつかる力加減が体でわかっていた。二人がぶつかる瞬間、「ドッバーン」という激しい音が響いた。両方とも、反動で体が離れた、間髪入れずに多豊の国のつっぱりがはいる、織田切山は無我夢中でつっぱりを手と腕で防いで寄り合いになった。つっぱりを防がれた多豊の国は不利である。つっぱりは自分の現在の場所から移動することなく手を動かす技である。それを織田切山は無我夢中で懐に入ってくるものだから、多豊の国は土俵の端へ端へと追いつめられていった。

 そして端に積められた際に多豊の国の悪い癖で、避し手をしてしまった。そしてどちらも同時に地に足を着いてしまったのである。

 多豊の国は怒った。もともと自尊心が高く、周りへのふき込みがうまい、しかも横綱である。それが小結にあがったばかりの元、前頭に再試合となっては言い訳がつかない。

 そこで多豊の国は刀を取り出した。そしてこう言った。「力士というど武士の端くれ、刀で勝負できなければ武士ではないぞ。」刀を織田切山にも、付き人を通して渡させた。
 多豊の国ははじめから戦う気はなかった。刀を織田切山に軸をブラして振れば良かっただけだし、しかもお互いの刀には刃入れをしていない模擬刀のようなものであるのだ。

 多豊の国は模擬刀を振りかざした、織田切山は刀など持ったことがなかったから逃げるばかりで構えはしたが、刀を振りかざした物に当てる程度だった。
 しかし、刀を振り回され、壁際に追いつめられた織田切山。多豊の国はこれで観念するだろうとゆっくりと模擬刀を振りあげゆっくりと下ろそうとした。すると織田切山は刀を構えながら多豊の国に突進していった。模擬刀は多豊の国の左目にささってしまった。
 そういった件から、喧嘩事とあっては国の一大事、国が取り締まるしかない。取り調べがあったのだが、当時の八王子は山の中、現場にいたのは力士しかいなく、みな何を聞かれても多豊の国も織田切山も黙ってしまい。その一方として多豊の国の左目の失明という怪我の事実が残ってしまった。
 そして判決の場にござに座った織田切山と多豊の国、判決を言い渡す役人、それを囲む護衛二人、そして不思議なことに役人の隣に小さな子供が正座していた。

 すると判決が出た。多豊の国、無罪。織田切山、有罪。
そして代官からからこう提案があった。「一年間、衣食住満足に与える代わりに蝦夷地で開墾をしないか?もしくはとある場所で五万回四股を踏んだらすぐにでも無罪になる、しかし食事は満足できる物ではないぞ」と、時期は春場所が終わった江戸。織田切山は悩んだ。そして代官は続けた。「名古屋場所には間に合うぞ。」すると織田切山は
それならばと、それで罪を償おうと決心した。

 そうして織田切山は目かくしをされて、江戸から数日移動した。食事は一般人と同じ量しか出なかったため、みるみるうちに痩せていった。そうしてきらびやかな都市と思われる場所の高い建造物の前で下ろされた。「ここがおまえが四股を踏む場所だ。」といわれ、また目隠しをされて階段と思わしきものをあがっていき、目隠しを外された。

 そして、ここまでつれてきた縁もあるので、私と息子が五万回四股を踏むのを見届けようと代官が言った。代官の子息も軽く礼をした。
 織田切山の四股を踏むのが始まった。
 織田切山のその場所は、なぜかぐらぐらした畳張りのものだった。織田切山はすこし不安に思いながら四股を踏んだ。「どっしーん、ぐらぐら。」その階の床が揺れた。
 織田切山に寒気が発した。そうれ試しにもう一度四股を踏んだ。「どっしーん、ぐらぐら。」やはり床が揺れる。代官はかまわず筆で回数を数えていた。織田切山はこれはおかしな場所だと思いながらも四股を踏んだ。そして五千回になったとき床が「スパーン」と音を立てて抜け落ちた。これに驚いたのは当の本人。気づくと一つ上の階から代官が見下ろしていた。代官は言った。「織田切山よ、まだ五千回しか四股を踏んでおらぬぞ。」織田切山は寒気もしたし、気が抜けてしまった。四股を踏み続けていけば、床が抜ける。床が抜けるが良いが、抜けた先はなにがあるのかわからないのだ。
 そうして一日目が終わり、体を水で濡らした手ぬぐいで拭き、その不安定な畳で寝た。二日目に入り、食事をとり四股を踏んだ。「どっしーん、どっしーん。」一日目と違い、若干勢いがない四股だったが三千回を踏んだ。そうして二日目が終わり、体を拭き、食事をとり就寝した。体が慣れたのか三日目は四股を四千回は踏んだときにまた床が「スパーン」と抜けた。織田切山は気づくとまた代官が「織田切山よ、まだ一万二千回しか四股を踏んでいないぞ。しかもまだ二回しか床が抜けてはおらぬではないか。」と言われた。そうして織田切山は今日の分はやめてしまった。次の日織田切山は四股を二千回踏んだ。正しくは二千二百回は踏んだのだが、代官からは「勢いないものは四股に数えない」といわれれ、数えられなかった。
 そうして五日目の夜の食事の時に織田切山は自分が相撲取りとして申し訳ないと思った。そして床につき、夢を見た。昔のこと事を思い出す夢だった。毎日寺子屋に行っては相撲を取る夢、角界に入る理由になった少年相撲大会で優勝する夢、優勝した商品のもち米で父と母とで餅を食べた夢、前頭として春場所で優勝した夢。そんな夢を見た。六日目から織田切山は変わった。食事をとるのもそこそこに四股を一日七千回は踏んだのだ。「どっしーん、どっしーん」次の日四股を千回踏んだときにまた床が抜けた。代官の息子が声をかけた。「おーい、織田切山さん大丈夫ー?」織田切山は大の字に倒れながらも「あああ、私は大丈夫です。まだ四股を踏み続けれますよ。」と声に答えて、水を飲んだ。そうして勢いよく四股を六千回踏み、また次の日に四股を三千回踏んだときに床が抜けた。
 しかし、この階から不思議なことが起こった。床の下から誰かの会話の声がきこえるのだった。しかも織田切山が四股を踏むたびに声が一時的に大きくなった。織田切山も
気にはなったが自分の義務を果たそうと四千回踏んだ。
 そして次の日になった。次の日、織田切山は六千回四股を踏んだ。四股を踏むたびに下の階から歓声が聞こえて気持ちは良かったのだが、今までの粗末な食事で少し力が出なかったのだ。そのため今日は早めに切り上げた。そうして次の日に改めて四股を踏んだ。二千回は踏むと床が抜けた。また織田切山は大の字に倒れていたが、気は確かだったが驚いた。落ちた先は誰もいない勘定所のような物だったからだ。
 しかし上の階から落ちてきた代官はその場で四股を踏むように命じた。そうして織田切山は四股を六千八百回踏むとまた床が抜けた。すると床が抜けた先は狭い土で覆われた通路だった。織田切山はそこを転がっていき、気づくと社の前に座っていた。
 あとから代官とその息子と提灯をもった二人ほどがやってきて、代官の息子が水筒を持ってきて、手渡して少し混乱気味の織田切り山に飲ませた。そして代官が言った。「織田切山よ、お前の義務はあと二百幾ばくかの回を残しておるぞ。そしてこの場所を知られたからには新たな役を命じる。はやく四股を大仏の前で行え。」織田切山は話を飲み込めずにいたが、先にふくんだ水で力がわいていた。 そして立派な四股を踏むと、まわりから「よいしょーよいしょー」とかけ声があがり二百回を越えると、たいまつを持たないあとから来た者が社の戸をあけるとそれは光輝く黄金の小さな大仏だった。
 そして今まで四股の回数を数えていた代官が自分は徳川の将軍だとあかした。そして徳川の将軍は今までの非礼をわびた上で「この徳川の隠し財産の金の大仏をみられたからには、公のものにするしかない。すると大仏は日光に納めるしかない。織田切山と八王子で稽古を取った関取たち、相撲関係者、武士ならば私の命に答えよ」と言い。そうして、徳川の金の大仏を背負った織田切山をはじめとする行列が京都から名古屋、途中左目を失明した多豊の国も参加して江戸を通り、日光にまで行き、納めた。
 その行列は大名が参加しなかったため、頭を大仏より下に下げる必要がなかったため、それの見たさのために行列には人が押し寄せ、街道の通りは大変ににぎわい、またその効果で名古屋場所は連日大入りとなった。もちろん織田切山は希望の通り参加できたが、将軍からの提案で名前を出された。「破回想」。
 京都六波羅の塔で不安という回想を破ったことと、武士として多豊の国の目をつぶしたこと、また後日談だが多豊の国から将軍にどうにかならないかという上申が送られていたためというものがあったからだ。
 織田切山、いや破回想はこの名古屋場所を全勝優勝し、ことごとく記録を塗りかえた。そうして避し手の名手だった多豊の国親方と後身の育成に励み、一生大関として現役を送ったのだった。

そうして将軍からも民衆からも、仏を大事に思う僧や公家からも認められた相撲は国技としててより一層、繁栄したそうな。
むかしむかし、江戸の後期のことだった。